歳を取って期待されること

歳を取る。身体的な衰えは確実にあって、若い者には勝てないことは確実に増えます。仕事の上でも若者に任せたほうが良いものが出来るケースは多い。スポーツ選手なんて、まさにそうでしょう。

少しでも、体力の衰えを遅らせる努力はするとして、年寄りに期待されることってなんなんだろうね。ということを考えてみた。

年寄りが話題になると、お若いですねって言葉が、誉め言葉になる。だいたいは見た目。なんだか違和感をいつも感じることも多くて、年寄りの価値ってなんだろうと。

時代劇やら西部劇で出てくる集落では年長者の意見が、とっても重宝されてます。「では、ご意見番に聞いてみましょう」となって、ご意見番らしい長老が出てくる。そんな世界は、世界中であるみたいです。年長者の意見が必要な文化が確実にあったんだと思います。過去形にしたのは、その構図が崩れてる気がするから。理由は、年長者が持つ意見が貴重ではなくなったからなんだろうと。年長者が衰えてきたのか?それ以外が凄いのか? はたまた聞く必要のあることがなくなったんだろうか?

昔は、10年、20年で、時代が大きく変化することなく進んできたのかもしれない。進んでる世の中のベクトルが同じ時代。年長者は、多くの若者が踏み入れていない遠くのことを経験として知っていて、それが貴重な意見として重宝される。経験則で伝えられることを伝えていれば、それが重宝された。生き方が多様になり価値観や生活習慣が変わると、その経験則が、まったく役に立たない。むしろ過去の考えとして邪魔な意見になってしまう。こんな仮説はどうでしょう。ネット全盛で、ネットで調べれば、だいたいのことが解る。こんな見方もあるかもしれない。

ChatGPTに聞けば、なんでも教えてくれるよって時代だと、頼るべき人なんて要らないのかもしれない。嫌な時代だと思うか、便利な時代だと思うかも、分かれ目かもしれない。

ただネットの世界で知れることは、ほんの一部だと思ったほうがいい。リアルな世界は、その何十倍も情報にあふれてます。感覚的なことや、プライベートで隠されている部分なんて情報は無いに等しいから。なんてこと言うと鬱陶しがられるんでしょか?

そんな世の中でも、昔の長老のように振舞われるにはどうしたらいいのか? 年長者が今の状況を知る努力をして経験を今風にアレンジ出来る術が必用なんだろうなと。「昔はねっ・・」て前置きを辞めて、「そうだな、こんな風には考えれないだろうか?」と気り出せる思考の変化が必要なんだろなと思います。AIが回答出来ないようなことって実は多いし。

そういう長老になるために視点を無限にって考えること、今の時代を知ること、そんな感覚が必要なんだろうなと。写真の世界でも一緒かな。いまだに、フィルムしか認めないとか、スマホは許せないとか、拘るのはいいことだと思う。ただ拘りを押し付けるのって、やっぱ良くない。そんな長老には、誰も意見を求めないと思うから。

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