歳を取って期待されること
歳を取る。身体的な衰えは確実にあって、若い者に勝てないことは確実に増えます。仕事の上でも若者に任せたほうが良いものが出来るケースは残念ですが、多い。スポーツ選手なんて、まさにそうでしょう。
少しでも、体力の減衰に足掻く努力はするとして、年寄りに期待されることってなんなんだろう。ということを考えてみた。
年寄りが話題になると、お若いですねって言葉が、誉め言葉になる。だいたいは見た目。なんでもかんでも若いことがいいことなのか?って思うのは、年寄りのひがみかな。で、年寄りの価値ってなんだろうと。
時代劇やら西部劇で出てくる集落では年長者の意見が、とっても重宝されてます。「では、ご意見番に聞いてみましょう」となって、長老が出てくる。年長者の意見が必要な文化が確実に世界中にあったんだと思うんです。過去形にしたのは、その構図が崩れてる気がするから。年長者が持つ意見が貴重ではなくなったんだろうと。昔は、時代の変化はベクトルが同じ方向に進んでいて、多くの若者が踏み入れていない遠くのことを年寄りは経験として知っている。経験則で伝えていれば、それが重宝された。今は、生き方が多様になり価値観のベクトルは360度全方向へ向いてる。ようは、ひとつの方向のことだけで語られても役に立たず、むしろ邪魔な意見になってしまってるかもと。それにネットで調べれば、だいたいのことが解るから、長老に聞く必要もない。
嫌な時代だと思うか、便利な時代だと思うか? 年代でも変わるかもしれない。
それに抗うように、ネットの世界で知れることは、ほんの一部だと思ったほうがいい。リアルな世界は、その何十倍も情報にあふれてます。感覚的なことや、プライベートで隠されている部分なんて情報は無いに等しいから。なんてこと言うと鬱陶しがられるかな?
そんな世の中でも、昔の長老のように振舞われるにはどうしたらいいのか? 年長者が今の状況を知る努力をして経験を今風にアレンジ出来る術が必用なんだろうね。「昔はねっ・・」て前置きを辞めて、「そうだな、こんな風には考えれないだろうか?」と切り出せる思考の変化が必要なんだろうと思います。AIが回答出来ないようなことって実は多いし。
写真の世界でも一緒。いまだに、フィルムしか認めないとか、スマホは許せないとか、拘るのはいいことだと思う。ただ拘りを押し付けるのって、やっぱ良くない。そんな長老には、誰も意見を求めないと思うから。
